広報よしわら 昭和41年11月に富士市と鷹岡町と合併した吉原市広報紙の全記録

昭和37年 8月20日発行 内容

特集
取締るためのものから“国民の生活擁護”に改まる

戸籍法移り変わりの90年

現在の戸籍制度は、明治5年に施行されたいわゆる「壬申(じんしん)戸籍法」が原形となっているものです。その後何回となく改正整備され国民の身分関係を公証する立派な制度となりました。今年はその「戸籍法」が制定されてからちょうど90周年に当ります。戸籍はいつの日でも国民生活の“基底”で常に住民の秩序を保つ源となって、より確実でより容易なものに考究されてきました。しかしともするとあまりにも身近な問題だけに忘れがちになりやすいものです。そこでみなさんにこのもっとも大切な戸籍をいま一度深く認識し理解していただくために、  戸籍の起源は非常に古く、垂仁天皇(約2,000年前)が人民を調査するために詔勅をくだし、長幼(おとなとこども)の序と課役のために定めたと伝えられていますが、制度としてはまだはっきりしていませんでした。
 戸籍に関する一般的な規定が定められ全国統一的に行われはじめたのは大化元年(645年)の孝徳天皇詔勅以後といわれています。しかしこの制度も当時唐(現在の中国)から輸入したもので、単なる国勢調査であって、戸籍を作成したのではありませんでした。
 戸籍帳簿として我が国ではじめて調製したのは大化の改新から6年後の白雉3年(651年)であるといわれ、今から約1300年前のことです。その後延暦8年までの144年間に前後22回にわたって、住民の実態調査と戸籍の調製が行われたのであります。いうまでもなく、その当時は戸籍という名称ではなく「ヘフミタ」とよんでいました。因みに「ヘ」は(戸)とか(家)に通じ「フミタ」は(文板=竹で造ったものでこれに戸籍を記載した)の意味です。
 このときに定められた戸籍の目的は、班田収授の基礎を知るためだと思われますが、それは同時に盗賊や浮浪人をなくし、親族関係をはっきりして、お互いの責任能力をたしかめ、また氏姓の紛乱をさけ、これをただすということも根本の目的であったようです。
※この氏姓紛乱の防止は当時日本の戸籍だけにあった独特のものなのです。

切支丹(キリシタン)徒を知るために
徳川幕府の人別帳

 島原の乱後の徳川幕府はキリシタンと弾圧するために毎年寺に庶民の「宗門(しゅうもん)あらため」を命じました。そこで里長(さとおき)名主たちは人別帳を調製したのであります。こうした影響と徳川という時代の流れの中で再び回復の運びとなった当時の宗門人別帳は近代的な戸籍制度としての形に整備されたのであります。
 徳川時代後期の戸籍制度は「宗門あらため」を基にして、これに警察や微税の目的を加え、その取扱者は寺院、名主、五人組頭、家主などで、この人達に“人民”の出入を記録させたのであります。このため人民はかならずどこかの寺に属さなければならなかったのです。人別帳に記載されないものは無宿人として定住することができませんでした。この人別帳の形式は、名前のほかに収穫高や近親者、寺社名などを記録したのです。
 この宗門人別帳のほかに寺には死んだ場合に記入する過去帳もありました。これら徳川時代に行われたいろいろの制度が現在の戸籍制度の基礎となっていることを忘れてはならないでしょう。

◇宗門あらためとは
名主が毎月その町内の生死並びに地借、店借、同居人などの出入を調査したもので、もっぱら尋ね人などの検察にそなえたもの。

‐ 写真あり ‐
( 写真説明右 )・・・明治5年の「壬申戸籍」
( 写真説明中 )・・・明治19年の戸籍
( 写真説明左 )・・・現在の戸籍

暑気も中盤から後半へ

◎夏休みも残り少なになった。猛暑の中に躍り、泳ぎ、飛びはねた太陽の子らは真っ黒―。しかし暑さにはめげない子らにも気がかりなことがある。それは宿題だ‐「わかっちゃいるけど・・・」の流行用語を残してまた太陽の中へ駆けてゆくー親のタメ息、子の歓声。
◎きょうも、真夏の太陽は容赦なく照り返る“暦の秋”はとっくに過ぎたというのにー。

‐ 写真あり ‐

“家”(封建)から“人”(民主)へ

法の精神も世代に順応

 民主主義を基底とした新憲法は民法にも大改正をもたらしたのであります。中でも親族編と相続編は全面的に改正を行い、身分関係における個人の人格の尊重と男女の平等をそのもとにしたのです。これによって我が国の家族制度は徹底的に民主化され、そして国民の身分関係を公証する「戸籍制度」も大きく改められたことはいうまでもありません。
 昭和23年に施行された改正戸籍法(新戸籍法)も従来(旧戸籍法)の特色は出来るだけ活用して、新時代にふさわしい戸籍に改め運用されることを終極目的にしているわけです。旧戸籍は戸主が中心になって一家をつくり、その家族全員で一つの戸籍を編成していたいわゆる「家の登録」でありましたが、民法の応急措置法によって家の制度は廃止され、国民一人一人の身分関係を公証する「公文書」となったのであります。因みに新戸籍第6条を記述しますと
「戸籍は、市町村の区域に本籍を定める一の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとにこれを編成する(夫婦同氏同一戸籍の原則)但し、配偶者がない者についてあらたに戸籍を編成するときは、その者及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編成する。=法文をそのまま掲載」とあります。
 もともと戸籍は、国民の日常生活の中でいろいろの目的に利用される場合が多いから、でき得れば共同生活する親族を一つの戸籍に登載(書いてのせる)するのが一番便利といわれています。それは我が国の家族生活一般の形が、夫婦と子ども(未成年者)が一緒に生活するのが普通であるために前記の枠が定められたものだと考えられます。しかしこれは民法の家の制度に代わる生活をもっているものでなく、戸籍運用の一つの方法にすぎないのです。従って戸籍のはじめに記載されているものがあとえ記載されているものたちに対して、親族法で専権的な支配力  なお次に記す事項も新しい戸籍法の特色です。
1.戸籍の表示は、本籍と筆頭者の氏名で行うことになりました
そこで筆頭者が除籍になったあとでも、同籍者がある場合は戸籍をそのままにしておき、戸籍の表示はその筆頭者及び本籍で行います。しかし全員が除籍になった場合は除籍法に移すことになっています。
2.同一の戸籍に書かれているものは必ず同じ姓名(氏)を名のることが必要ですから、氏に変動(入籍、除籍、新戸籍編成など)があったときは必ず戸籍にも変動があります。
3.子どもの名前はふだん使うやさしい文字を用いなければなりません。

治安回復にも一役 明治にできた壬申戸籍

 明治維新になると天下の政治は天皇がとることになり、明治4年7月に廃播置県(全国の藩をやめて県をおくこと)の大改革が行われました。またその直前の4月には維新政府の画期的一大事業であり、新戸籍制度の開祖ともいうべき相当整備された「戸籍法」が公布されたのです。
 それではなぜ政府が戸籍の統一をおもいついたのでしょうか…
第一理由の、戸籍の調査は民治民生の上からもっとも必要なことと考え、人民を掌握する最初の手段として実行したのです。つぎは当面の重要社会問題であった浮浪人の取締りで、幕末から維新にかけて脱籍無産の一族とならずものがそこかしこ自由にあるきまわり押込強盗を働くとい全く暗雲の世の中となったのです。そこで政府はこれらの問題解決と治安を確立するために、警察的な目的ももった戸籍法を公布したのであります。
 この戸籍は実施の年が明治5年であったことと干支(かんし)が壬(みずのえ)申(さる)という関係から普通壬申(じんしん)戸籍ともいわれています。形式は美濃紙の白紙に本籍、氏名、年令、婚姻、離婚、縁組、離縁、健康状態、被扶養者などのほかに浮浪人を取締る警察目的のためとくに職業、宗旨、犯罪などを記載していたこともあります。

人口や無籍者の把握 維新が生んだ公証制度

 壬申(じんしん)戸籍法もだんだんに新政府の一片の布告(政府が出す法律・jから簡単に制定されたものではなく、当時我が国の一大変革にあった徳川の封建社会から明治維新へ転換してゆく社会構造、生活構造の中で、統一国家の建設、統一の制度を創設した関係者の苦労は決して並みなみでなかったこととはあえて記するまでもありません。しかしその人達の熱情と努力があったからこそ、こんにち重要な「公証制度」が誕生したということを忘れてはならないでしょう。
 新しい国家の建設をはかった明治政府の基本条件は「人口の把握」ということでありました。そこで政府は明治2年3月東京府下(現在の東京都)へ戸籍の改正を命じました。また地方に対してもその必要に応じ従来の人別帳による戸数、人口の調査を命令「脱藩浮浪の徒」の取締りも兼ね、明治の変革にともなう社会不安の除去を第一目的としたのであります。
そして同年6月には、京都府編成の「戸籍仕方書」を全国に頒布、これを模範に統一の人口把握をはかり、戸籍制度創設の事業に着手しました。明治4年大政官(だいじようかん)布告をもって戸籍法33則を公布、翌明治5年同法を施行、これがいわゆる壬(みずのえ)申(さる)年であったことから「壬申戸籍」とよばれるものです。
 このようにして、明治初年に制定された戸籍は一応完成されたものとなり、その後数回にわたって改正が行われ、身分を公証する重要な制度となったものです。

‐ 図表あり ‐
( 図表説明 )・・・吉原市の世帯と人口の移りかわり

むすび

 こうして系譜的(家の系統をかいたもの)なつくりをもっている日本の戸籍制度は何回となく改正され、こんにちもっとも重要な行政事務になったのであります。そしてみなさんの文化生活の向上発展のために、欠くことのできない大切な役割を果たすものとなりました。
◎本紙は戸籍法施行90年を記念して起源から順次変遷のあとを、元静岡地方法務局戸籍課長=成毛さんの文献を参考に記述しました
なお別表は吉原市の明治初年から現在までの人口おうつりかわりです。またこの資料作成に当っては国会図書館、県統計課、県葵文庫、富士文庫、市立図書館の提供をいただきました。
※戸籍史のくわしい変遷、壬申戸籍で先祖のようすなどをお知りになりたい方は、お気軽に市民課へお出掛けください。いつまでも閲覧に応じます。